南画における模倣と創造

(2年生のときのレポート。割と真面目だ…)

  • はじめに

 ここでは、18世紀京都における南画大成に至る展開の中で、画譜を用いた模倣に始まり次第にそれぞれの画家の個性や技術を発露させ南画の独自性を獲得する過程を概観する。この時期の南画家たちの出自や技巧、思想、時代背景、中国絵画・版画との関わりといった要素が持った意義を検討しながら、南画における模倣と創造に関する特質を捉えてみたい。

  • 南画とは何か

 まず、しばしば議論になる南画という概念について整理しておかなければならない。参照点となっているのは、中国での文人画と南宗画である。
 中国における文人画とは、儒学をはじめとした教養を身に付けた支配階級に属する士大夫が学問や政治の合間に嗜んだ絵画のことを指す。文人は自らを優れた精神・人格を持つとして職業画家とは区別し、あくまで趣味として描いた。伝統を重視し、内面的豊かさを尊重した。明末の董其昌は「万巻ノ書ヲ読ミ、万里ノ道ヲ往ク」ことを説いたほどである。つまり、文人画は特定の様式を指すというより、制作者の出自と精神性を表すものとして定義されている。
 中国の山水画は華北と江南で様式が大きく分かれ、前者は技巧的で写実的な職業画家による北宗画として、後者は自発的な柔らかい筆使いを重視する文人・士大夫による南宋画として元末四大家によって大成された。もちろん南宋画・北宗画は画家の出自によって規定されているわけではなく様式を指すが、南宋画を大成した四大家がいずれも文人だったことは留意すべきである。
 さて、南画家とは中国の文人画家(あるいは南宗画家)を手本にした18、19世紀の日本の画家と定義されるが、いくつか注意しなければならない点がある。そもそも、文人(士大夫)という概念を日本にそのまま適用するのは難しい。というのも、文人は支配階級の教養人であることが前提だったが、江戸時代では学者は武士に仕える存在であり、こうした階層は想定されない。与謝蕪村は職業画家としてあくせく生計を立てていたし、武士階級出身の南画家も藩から離れた者が多い。彼らは「文人画をむしろ純粋な理念として捉え、身分の枠から放たれた自由な世界をそこに夢見ていた」(辻2005, p.311)のだ。さらに、南画という語は南宗画の略語であるが、様式としては南宗画ばかりではなく、統一した形式を持っていない。雪舟のように中国に渡って画法を学ぶことができた南画家はいないし、輸入された絵画は中国本土で優れた評価を受けていたものはほとんど無かったとされる。南画の独自性とは、簡単にまとめてしまえば、様々な立場の画家たちが数少ない情報源をもとに想像力を駆使してつくりあげていったところにあるのだと言える。以下で詳しく検討してみよう。

 18世紀の画壇は幕府の御用絵師を務めていた狩野派によって独占されており、当時画家を目指す者はこの流派のもとで学ぶのが当然だった。だが次第に保守的な傾向を強めており、狩野派に伝わる画法だけを習得する支配体制から離れて創造的な作品を創りだそうという機運も高まっていた。狩野派パトロンであった徳川将軍が長崎奉行に対して中国絵画を輸入せよと命じ、結果として1731年に沈南蘋が来日したというのはその好例であろう。
 狩野派のもとで学ばない画家たちは、絵本や画譜を使って独学した。輸入された絵画は無名画家による粗悪品がほとんどだった一方、18世紀には『八種画譜』や『芥子園画伝』といった中国の画譜の翻刻が出回っており、大坂画壇では林守篤による『画筌』(1721年刊)をはじめとして、大岡春卜、吉村周山らが中国画論の紹介と合わせて、狩野派だけが蓄積していた絵手本や国内外の絵画などをまとめて出版し広く知らしめた。本来狩野派の画法習得は師から弟子へと口伝されるものであり、それまで秘められていた資産が公開されたのは画期的である。狩野派ではないことが重要であったために、南画家たちが学んだのは様式的には南宗画ばかりではないことは注意すべきである。柳沢淇園には南宋画様式の山水画は一点も無く、与謝蕪村には北宗画や沈南蘋に倣った作品もある。
 一方、こうした和製の画譜によって忠実に技法が伝達されたとは言い難い側面も否定できない。例えば『画筌』で描かれる馬成子像は本来の鋭い目線ではなく何気なく左上を見上げるだけで、中国人物画の伝統である眼による心理描写が抜け落ちているし、春朴の『画史会要』(1751年刊)は明清画を独立した巻で扱っている点で新しいが、取り上げた画題が適当ではなく、画家の典型的な作風を伝えているとは言えない。吉村周山の画譜には描線の忠実な再現が見られるという評価もあるが、大陸から学び取ろうという意欲はあるものの、やはりこれらの画譜は狩野派の専門画家たちによるものであり文人画論や中国絵画の美術史的な理解には至っておらず、無作為な寄せ集めの域は出ていないとされる。ただ、南画家たちによって明清絵画から独自の作風を編み出す土壌を形成した点は見逃せない。
 南画家の多くは職業画家であったから、当然彼らは顧客の目を意識せざるを得ない。画譜の流通や経済的発展によって多くの素人画家が登場している中で、自らの画風の個性を発揮すべきか、多様な注文に応じてどんな画でも描ける器用さで売り出すべきかを選択しなければならなかった。色々な要望に応じるには見本を使うのが早いが、それでは独創性は担保しづらいというジレンマだ。服部南郭は職業画家ではないが、『八種画譜』『芥子園画伝』といった画譜を「俗」だとして退けている一方、これに基づく作品も残している。祇園南海も既存の画譜に満足していないが、やはり画譜を参考にしている。彼は中国に範を求めることを強調し、舶来の絵具さえ用いるなど、画譜の存在を問い直しつつあった初期南画家たちの貪欲な創作意欲が垣間見える。

  • 画譜からの発展

 初期南画家に分類される彭城百川は、自ら「売画自給」と称した画家だったが、初めて本格的な南宋画様式を獲得したとされる。画域の広さ、技術の高さ、大画面でも描いた点や、職業画家という身分の面でも次世代の池大雅や蕪村の先駆となる存在である。彼も画譜から学んでいるが、「李白瀑布図」は木版画をもとに作図したとは思えない構図の充実ぶりで、「柳陰水亭図」の頃には中国画を見る機会が増えたと推測され、画譜と併用する方法が取られている。内容は剽窃が目立つとされるが『元明画人考』を出版するなど、画譜の受動的な利用から発展する流れが読み取れる。
 南画大成期の池大雅は、指墨を人前パフォーマンスすることで評判になった。30代後半からはほとんど見られないが、指墨画はその一回性によって手本を模倣する従来の制作方法から自由になり、画家の個性を発揮する手段として積極的に利用されていた。酒に酔った状態で描く酔作も同様の意図から蕪村、曾我蕭白が使用した。
 だがこれらの指墨画や酔作も、結局のところ描く対象や基本的な理論には従来からの変化はなく、筆勢が変わっただけとも言える。つまり「狩野派の画家が家伝の画法という社会化された規則に従ったのに対し、彼らが身体の癖にまで還元される個人的なリズムをよりどころにした」(佐藤1994, p.151)のだ。だが、こうした動きを過小評価するよりも、画譜の模倣から抜け出そうという積極性に後世への影響を認めるべきだろう。

  • 雅と俗

 南画において見逃すことができないのは、江戸時代の文化的な思想として言及される雅と俗の概念である。『芥子園画伝』などの画論書では、南北二宗論とあわせて去俗の論が語られている。市気(商売気)によって俗家が増すことを避け、書を読むことが肝要だと唱えられている。中山高陽に続いて蕪村も『芥子園画伝』の去俗論を得て、「俗を離れて俗を用いる」ことを説き、平易な表現の中に深い味わいを盛り込むことが重要だとしているし、江戸後期の田能村竹田も市気を去ることに南画の精神を見ている。
 蕪村の『夜色楼台図』は、雪降る夜の街並みというこれまでに無い主題や街の明かり、都市生活者の感情の機微という「俗」なテーマを、伝統的な構図と山水画という「雅」と言える手法を用いて描くことに成功している。この雅俗の見事な融合は、南北二宗論や文人画論の背景まで読み取ることが難しかった日本の南画家たちが、「去俗」という概念を出発点に独自の南画をつくりあげていった創造性の一つの到達点と言えるだろう。


参考文献

  • 佐藤康宏「十八世紀の前衛神話」『江戸文化の変容 十八世紀日本の経験』平凡社、1994
  • 小林宏光「明清絵画と近世日本画壇――南画の黎明期にいたる中国絵画の受容にそって」『日中文化交流史叢書7 芸術』大修館書店、1997
  • 武田光一『日本の南画』東信堂、2000
  • 大槻幹郎『文人画家の譜 王維から鉄斎まで』ぺりかん社、2000
  • 佐藤康宏「雅俗の都市像――与謝蕪村「夜色楼台図」」『講座日本美術史1 物から言葉へ』東京大学出版会、2005
  • 辻惟雄『日本美術の歴史』東京大学出版会、2005