絵画を眼差すこと

 
左=(1)Tim Davis, Permanent Collection:Daedalus and Icarus, 2005
右=(2)Orazio Riminaldi, Daedalus and Icarus, 17th century

 絵画はそれ自体一つのモノであることを、私達は忘れがちだ。作品によって支持体(キャンバス)の種類や大きさは全く異なり、それが印象を規定する。例えば、壮大なスケールの歴史画に圧倒され、ごく小さなキャンバスに目を細めたり、長大な絵巻を眺めながら人物に心情を仮託する、といったように。
 絵画のモノらしい性格としてもっと身近なのは、表面の凹凸やマチエールかもしれない。マチエールは、時として画家の個性が発露する場として機能する。ジャクソン・ポロックを思い浮かべてみれば、彼の作品における一つの本質はあの絵具の無骨な厚み(場合によってはそこに紛れ込んだ異物)にあると納得するだろう。こうした絵画の物質性は、もしかすると人が美術館などで生の作品を目にしようという理由の一つになっているかもしれない。なぜなら、この凹凸は、印刷物では体験できない三次元の要素だからである。
 一方で、伝統的な西洋の絵画では、このマチエールを徹底的に消し去ることが意図されてきたことも事実だ。ある一点から眺めることによって完璧なパースペクティヴを獲得する遠近法、一定の位置から照らす光源を絵画の内部に想定する陰影法など、自然主義の立場で用いられるこれらの手法は、絵画の物質性とは相容れない。作者の痕跡を限りなく消去し、あたかも描かれた対象物が実在するかのように見せかけるトロンプ・ルイユ(だまし絵)を目指す態度は、連綿と存在してきた。Zeuxisがぶどうを鳥が本物と勘違いするように描き、彼もParrhasiusの描いたカーテンを実物と見間違えたというプリニウスによる逸話は、こうしただまし絵の伝統が古代まで遡ることを示している。このエピソードは、ルネサンス期に繰り返し語られることになる(Land 1994, pp6)。
 だがもちろん、こうした物質性を隠蔽する努力がなされたとしても、作品を実際に眺めるとき、キャンバスそのものの物質性は時として現前する。とても艶のある表面をしているだとか、剥落が進んでいるだとかということが気になって仕方がなくなる。キャンバスそのものは二次元であり、描かれた内容は三次元として捉えるべきだ、という観者の視線が、表面の凹凸や剥落といった要素に邪魔を受ける。しかしそれでも我々は、絵画の内容に没頭することができる。我々は日頃から印刷物やディスプレイに映った画像を通じて、平坦なキャンバスから立体的な内容を読み取るという作業を反復しているからだ。

 こうした印刷物や画像、すなわちカメラによって撮影された絵画は、物質性が取り払われている。専門家による入念な準備と細心の注意によって、カメラと照明が完璧にセッティングされ、あらゆる夾雑物を取り除き、絵画そのものを写し取ろうとする。観者はこの写真が絵画そのものを表すものだという前提に立って、写真を眼差す。
 『ヴィジュアル・カルチャー入門』では、写真・映画に関係する視線(ルック)を、以下の四つに分類している(pp102)。

①記録されるべきモティーフや場面へと向けられる芸術家、写真家、映画監督の視線。またそのカメラの視線
②描写対象である登場人物が、画像なりフィルムなりの内部で互いに交わしあう視線
③鑑賞者がイメージへと向ける視線
④描写対象である登場人物と鑑賞者のあいだで交わされる視線

 カメラは絵画に対して①の視線を投げかけ、観者は印刷物に対して、そのカメラを通して③の視線を投じる。しかしここでは①の視線は忘れられ、同時に絵画の物質性が失われている。

◇ ◆ ◇

 冒頭に掲げた2枚の画像を見てみよう。(1)は現代アメリカのアーティスト、Tim Davisの写真作品であり、(2)はイタリアバロック期の画家Orazio Riminaldiの絵画である。一見して分かるように、(1)は(2)を写したものである。というか、(2)自体もカメラで作品を撮ったものであるはずだから、二つとも写真である点は違いない。(2)は、上で述べたような、一般的な印刷物・画像向けの、恐らくプロの手によるものである。
 Tim Davisの作品は、意図的に余計な照明を入り込ませ、絵画の表面の性質を浮かび上がらせている。これは我々が美術館で作品を鑑賞するとき、しばしば体験することであろう。照明が照り返してくるために、立ち位置を変え、問題なく見えるポイントを模索する。こうした経験が何度もあるにもかかわらず、Tim Davisの作品を前にしたとき、鑑賞者はひどく困惑する。というのも、美術館を訪れたときに体験する照り返しも、我々は無意識のうちに避けようとしているからだ。マチエールを意図的に際立たせていない絵画においては、表面の凹凸がどうなっているかということは、普段からどうでもよいことだと考えているのである。
 しかもこの照明は、恐らくOrazio Riminaldiの絵画における最も重要だと思われる部分、イカロスの美しい顔を完全に覆ってしまっている。普段は意識から追い払われているカメラが絵画に向ける①の視線が露わになり、観者が作品に向ける③の視線が成立しなくなる。キャンバスの表面性が露わになるということは、だまし絵的な効果が機能しなくなることを意味する。表面に気を取られ、絵画の内部に没頭することが妨げられてしまう。

 Tim Davisの作品を前にして分かるのは、我々は特に印刷物・画像に対しては、絵画の持つ物質性を軽視しがちであるということだ。マチエールを強調しない絵画に対しては、なおさらである。印刷物から絵画の情報だけ読み取ろうとする反復された思考が、ここで中断する。照明によってキャンバスの表面が強制的に露わになることで、だまし絵的な効果や、さらには神話の主題からもたらされる崇高な感情は剥ぎ取られ、絵画はただ一つのモノとして、異なった表情を浮かび上がらせることになる。


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