『桐島、部活やめるってよ』のゾンビについて

 以前国文学の教授が「私小説を読む時、物語中のどの部分が現実と同じなのかということばかり気にしてしまうが、どこが現実から改変されていて、それは何故なのかを考える方が大事だ」というようなことを言っていたんですが、これは小説を原作とする映画についても当てはまることかもしれません。
 吉田大八監督『桐島、部活やめるってよ』の原作小説では、主人公と映画部が撮影していた映画は青春映画だったようですが、画中ではゾンビ映画を撮っていることになっています。これは昨今のゾンビブーム(というのがあるらしい。『ゾンビランド』のような〈メタゾンビ映画〉の存在がそれを示しているかもしれない)に対応してのことなのかもしれませんが、これがかなり重要な役割を果たしているように思われます。
 まず、ゾンビ映画というテーマが、主人公たちが「自分の好きなものを撮る」という動機付けになっています。映画『桐島』の主題は、多くの人に指摘されている通り、人間関係に汲々とする中心的な人物たちと、普段はうだつが上がらないながらも趣味や部活動に打ち込む者たちの関係性が、桐島の不在によって相対的に逆転するということにあります。顧問の教師の反対を押しのけて、どう考えても受けが悪そうなゾンビの映画を撮影することは、趣味への没頭という態度を効果的に示すことになっています(もちろん、映画部のメンバーが血糊を使ったりして撮影している風景がユーモラスに映るというのもポイント)。
 何より重要なのが、このゾンビの映画の存在は、終盤で屋上にやってきた生徒たちが8ミリカメラを通してゾンビに喰われてしまうという一見して滑稽な、しかしダイナミックなラストシーンを導きます。このゾンビの反乱は、人気者たちへの恨みの解放(神木くんの橋本愛への淡い思いも裏切られたばかり)と捉えることも可能かもしれません。ただ、映画部の面々も日頃から彼らにルサンチマンを抱いているようには描かれていません。両者の関係性が入れ替わるこのラストシーンを単なる暴力で表さず想像上のゾンビに担わせている上品さが、この映画を爽やかなものに仕上げているのではないでしょうか。
 補足すれば、このシーンでは吹奏楽部が演奏する「エルザの大聖堂への行列」がバックに流れ続けます。一般に、残酷で猟奇的なシーンでは、逆説的に「崇高」なBGMが使われることが多いと言われます。卑近な例しか知りませんが、例えばデビット・フィンチャー監督の『ドラゴン・タトゥーの女』では、主人公の男が地下室に捉えられ拷問されようとする場面でエンヤ(これはよく許可下りたと思った)が犯人によって流されていたり、『エヴァンゲリオン新劇場版・破』でも明らかに不釣合いな「翼をください」が使われていました。『桐島』におけるゾンビと「エルザの大聖堂への行列」という意図的な対比も、この曲の壮麗さも相まって、全てが集約していくラストシーンを引き立てる有効な手段として機能しているでしょう。