『おおかみこどもの雨と雪』雑感

 細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』。まだ一度しか観ていないのですが、考えたことを列挙しておきます。

 細田監督のオリジナル長編としては2作目にあたる今作は、さまざまな意味で『サマーウォーズ』と対比することができると思います。例えば以下のような点です。

  • 持てる者/持たざる者
    • サマーウォーズ』は強引にまとめてしまえば名家の一族が知力・財力・人脈を総動員して地球を救う、というファンタジーです。一方、『おおかみこども』はシングルマザーの「花」と社会に簡単に受け入れられない子供たちの物語です。おおかみこどもは、さまざまな社会的弱者の記号として機能しています。地域社会・医療・学校など、色々な場面において彼/彼女が被る疎外(とその克服)が描かれ、映画を観る者はそれぞれの境遇に応じて自らのかつての記憶を呼び戻させられるでしょう。
  • 時間
    • サマーウォーズ』は確か2日間というコンパクトな時間にまとめられていましたが、『おおかみこども』は13年間という年月を圧縮して描いてる。そこにはこれまでなかった季節の移り変わりも描かれている。だから、細田作品の夏の風景を見慣れた観者にとっては、おおかみこどもたちが雪原を走り回るシーンは二重に鮮やかに映ることになります。
    • ところで、この物語は全て大人になった娘の「雪」自身によって思い出す形で語られています。しかもこの回想は、恐らく映画の最後で高校に入学して寮生活を始めたと示されるよりも、もっと後になされているに違いありません。なぜならこの雪の語り口は、花が雪に対して亡き「おおかみおとこ」の話をしたのと同じように、母親が子供に自らの出自を聞かせているものとしか思われないためです――もしそうでなければ、こんな壮大な秘密を一体誰に打ち明けているというのでしょうか? つまり、『おおかみこども』の時間軸は、花―雪―その子供という3世代に渡っていることが暗示されているわけです。
  • 時代とテクノロジー
    • サマーウォーズ』は科学技術、特にIT分野が発達した現在に近い未来が舞台です。コンピューターやWWWの世界(細田監督お得意の真っ白な電脳世界)がふんだんに描かれています。『おおかみこども』は一見して、まだ情報機器が家庭に行き渡っていない近過去のように思えます。ところが、制作者のインタビューを読むとどうやら現代の話として描いているらしい。コンピューターのディスプレイなどが(数カ所を除いて)ほとんど映らないのはもちろん意図したもので、花の調べ物も本が中心であることもあって、観者は過去に展開する話だと捉えてしまう。というか、映画がそう捉えさせようとしている。
    • もちろん厳密な年代設定は前提とならない映画なのですが、単純に、あまりに現代的な描写は『おおかみこども』にそぐわなかったというだけのことかもしれません(花がGoogleで「ジャガイモ 育て方」なんて検索していたら興ざめでしょう)。一方で、実はこれが現代であるという隠れた事実は、「おおかみこども(と母親)」が全くのフィクションではあり得ないということを示唆しているように思われます。上で述べたように、おおかみこどもはさまざまな社会的弱者の記号なのです。

 これらはほんの一部ですが、こうして眺めてみると、『サマーウォーズ』と『おおかみこども』は正反対の作品であるようにも思えます。このリアリズムへの移行には、多くの人が『崖の上のポニョ』を引き合いに出しているように、細田監督の明確な「国民的映画」への意図を感じます(『サマーウォーズ』が毎年夏に必ずテレビ放映しているのも、このような目的のための一つの手段だと考えるのは邪推でしょうか)。

 なお、表現上の細かな点であまり指摘する人が見られなかったのですが、花とおおかみおとこが夢のような世界で再会するシーンで、二人の輪郭線が朱色で描かれています。これは仏画によく見られる技法です。例えば以下の画像を拡大してみればよく分かると思います。劇中では、この世ではない場所であることを示す効果を担っています。
e国宝 - 十一面観音像(平安時代、奈良国立博物館蔵)